さなみん

石をひとつ投げ込んでみる心のなか

多面体またはアメーバ

私の他には誰もいないオフィスに、FAXの音が響いている。

大概は、経営セミナーの案内とか、節税のコンサルティングのお誘いで、ゴミ箱に直行だ。

エアコンの音も聞こえてくる。

それから、外を通る車の音。

 

オフィスは、どちらかといえば商店街にある。

私のお昼は持参のお弁当だが、周囲には、チェーン店のお弁当屋さんもコンビニも牛丼屋さんもハンバーガーショップも、ひととおり揃っていて、お弁当を持って来ない勤め人には都合のいい条件。

商店街の裏側には、高所得者向けのマンションが建ち並んでいる。

当然ながら、犬を散歩させている老人や、早目の買い出しに来る奥様方や、名門小・中学校から下校する子供たちとか、お迎えをしてきたママたちと幼稚園児の組み合わせとか、いろんな生活者のかたが通る。

その、話し声、生活音が苦手だ。

 

自分が家にいるときは、すこしも気にならないそれが、オフィスにいるときは、雑音を通り越して騒音になる。

単に、やかましい、というのではない。

場違いなのは自分のほうかもしれないのに、相手のほうこそそうだと感じてしまう身勝手さによる精神的な騒音、である。

 

廃品回収の車が通った。

故障していても無料で引き取るとテープは流しているが、いざ持っていくと、これに限っては有料です、なんてことを平然と言われる。

忌々しい。

 

こういうとき、オフィス街の職場が懐かしくなる。

線引きに迷いつつ、一種の棲み分けも求め、混在に苛立つ他方で、雑多や曖昧や多様性を好まずにいられない。

 

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ひとりの人の中に、いろいろな対象をみることがある。

たとえば親しい異性がいたとしたら、そのときどきにより、恋人にも親友にも悪友にも家族にも、場合によってはただの通りすがりにだって感じられる。

この人は私にとって「こういう存在」というようなあてはめかた、決めつけかたが好きではないし、できない。

器によってかたちを変える水のような、あるいはアメーバのような関係を好む。

 

だから、私の中で、または私をもそういうアメーバだととらえている人ととの間でなら、男女の友情は確かに成立している。

そしてそれは、sexの有無に左右されない。

異性だと意識したら、相手に欲情したら、友達ではいられない、とはまったく思わない。

恋愛感情抜きのsexは考えられないが、すべてをそれの有無で分けることに、なんとなく気持ち悪さを感じてしまう。

こだわりの強さが、どうにも生臭い。

 

自分も多面体でいたいし、相手との関係にもそれを求める。

「この人は友達以外のなにものでもない」という言い切りができたり、恋愛感情しか覚えない相手、というのは、私にはいささか物足らない。

この矛盾もまた、自己の多様性ということで、自分を納得させている。

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