さなみん

石をひとつ投げ込んでみる心のなか

さるまた失敬

タイトルは、三谷幸喜の舞台・映画「笑の大学」より「失敬」した。
戦争が激化していく昭和の日本で、だんだんと制圧・弾圧されていく表現の自由をテーマにした喜劇。(それから、人の心を動かすのは人、ということ)。


心の底から笑ったことのない検閲官と、庶民を笑わせる脚本を書くのが仕事の座付作家との、ほぼ二人芝居。

私はこれが大のお気に入りで、繰り返して観て、プロンプターもできそう(^_^;)

 

そこに登場する「劇団笑の大学」の座長のおなじみのギャグが「さるまた失敬」。

お堅い検閲官だけではない。

私も、こういうギャグに笑えないクチだ。

どこが面白いのかわからない。

繰り返しがしつこいとうんざりする。

こんなもののどこがおもしろいのか、こんなものでよくお客さんは笑うものだと、検閲官も首をひねる。

 

すると、座付作家は答えるのだ。

お客さんは、笑いに来ているのですから、何かすこしでも笑えることがあったら笑おうと準備しているんですよ。

 

なるほど!

準備しているから、そこでお約束通りに「さるまた失敬」が出ると、待ってましたと笑えるわけだ。

 

そういう人は、たぶん「泣ける映画」という謳い文句にいそいそと映画館に足を運び、周囲の目もはばからず号泣できるのだろう。

「泣けるドラマ」と宣伝されれば、これは観なくてはと意気込んで、ティッシュボックスを引き寄せてチャンネルを合わせる。

「泣ける小説」「泣ける音楽」もしかり。

さあ、これから泣きますよと準備をして、存分に泣く。

そして、スッキリする。

 

私は、こういうのが苦手。

だから「さるまた失敬」で笑えないし、そもそも見る気にならない。

「泣ける」と謳われたものは、そう謳わなければ観たのに、「泣ける」という冠がついたせいで観ない、ということがままある。


従来、これはへそまがりのせいだと思ってきた。

みんなが右を向いたら、左を向きたくなるせいだと。

 

だが。

年を重ねるにつれて、すこし違っているような気がしてきた。

私は、「無理に笑う」とか「無理に泣く」とかに興味がないのだ。

笑いたいとか泣きたいとか、そういう感情が湧かないタチなのかもしれない。

しかし、ちゃんと?笑うし、泣きもする。

でも、それは最初にそうしたいという思いがあってのことではない。

自然な心のままに、涙がこみ上げ、笑みがこぼれる。

それでいいと思っているので、無理にそう仕向けるような気配を感じると反発したくなるのだろう。

ということは、やはりへそまがりなのか(^_^;)

 

茨木のり子さんの詩に「自分の感受性くらい」という作品がある。

共感というのはおこがましいが、私もまったくそう思っている。

あるブログ友は、この「泣かせ」を「感情ファシズム」と呼んだ。

言いえて妙。

 

また、大嫌いな24時間テレビの季節がやってくる。

ファンのかたには、さるまた失敬<(_ _)>

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