さなみん

石をひとつ投げ込んでみる心のなか

麻央さん報道に思うこと。

しばらくテレビをつけていない。

どんなに忙しくても、ニュースくらいは見たかったのだが、ここ数日は怖くて見られなかった。

麻央さんが亡くなられたということで、海老蔵さんの記者会見があったらしい当日は、どこの局のニュースを見ても、その話題で持ちきりだった。

 

死去の報を聞いて、兄はいっそう体調が悪くなった。

私も、倒れてしまった。

 

末期がんの兄は、思ったに違いない。

ああ、やっぱり死ぬのだ、と。

どんなに手を尽くしても、どんなにその人の心が強くても、美しくても、みんなが祈っても、なにしても、やっぱり死ぬのだ、とわかった。

とうにわかっていたその当たり前のことを、突きつけられた。

その刃は、報道によって何度も、兄と私に振り下ろされた。

 

兄は、その夜、入院した。

治療の施しようがない者だけが入れる緩和ケア病棟だ。

うちには、在宅で看るお金も人手もない。

その時点で、唯一の家族でもあり、働き手でもある私に看取られることはあきらめただろう。

私が働かなければ、療養費も生活費もない。

 

世間は在宅、在宅とかまびすしいが、それができる人は限られているのだ。

そうして、それができることが当たり前の人は、できない人に問うのだ。

どうして自宅で看ないの?

麻央さんは、最後まで自宅で家族で過ごせて、それだけはよかったね、と。

 

今も、必死に病気と闘っているなら、いい。

その結果、奇跡の生還を果たしたのなら、励まされもする。

ああ、うちにだってこんな奇跡が起こるかもしれない、信じて頑張ろう、と。

でも、彼女は、死んだ。

奇跡は起こらなかった。

彼女の死は、他人の私と兄に、救いようのない絶望しか与えなかった。

いや、彼女だけではない。

あらゆる人の訃報というものが、死を間近にした者にとっては、刃なのだ。

突かれ、刺され、切り刻まれる。

 

うっかりつけていたテレビが、繰り返し麻央さんの映像を流した。

生前の元気な姿、闘病中の懸命な姿。

ニュースとしての訃報だけならまだしも、視聴率稼ぎのエサのように撒かれていた。

そこにたくさんの視聴者が食いついた、らしい。

 

みんな、人が亡くなった話が好きなのね。

家族の嘆き悲しむ姿を、そんなに見たいのね。

 

自分か、自分の大事な人が、今日死ぬか明日死ぬかと、怯えて暮らしてみればよい。

彼女のやつれゆく姿と死は、自分たちの姿を映した鏡でしかないと感じるだろう。

彼女を応援していた多くの人の中には、あそこまでいったらもう助かるまいと、いつ死ぬかいつ死ぬかと思い、訃報に接して、ああやっぱりね、と思った人もいたに違いない。

そうよね、兄もそんなふうに思われている。

私だって思っている。

本人も思っている。

でも、それを突きつけられるとつらいのだ。

気付かないふうを装って、普通の日常を生きたいのだ。

できる限り。

 

他人事だから、ドラマを見るように死に至るドキュメンタリーがつくられる。

見られる。

同情して泣いて、涙を出したカタルシスですこしスッキリとかできる。

 

平気で、「強さに励まされました」などと言える。

強くたって、死んだじゃん。

志半ばで。無念のうちに。

それは、同じ病のものにとって、励ましなんかじゃなくて、ただの死刑宣告。

死刑執行通告。

おまえも、同じようにもうすぐだよと、一連の麻央さん報道が言っている。