サル
オフィスのエアコン室外機が嫌な音を立てている。
除湿にすると暑いし、冷房にすると寒い。
冷房温度を28℃にすると暑く、27℃にすると寒い。
どっちつかずの苛立ちを、室外機の音が煽っている。
2階の窓からは、向かいにあるハンバーガーショップの2階がよく見える。
ポテトをつまんでいる指の、ショッキングピンクのベストの下から覗いた腕は、黒い袖に覆われている。
暑くないのかな、と思う。
それとも店が寒いのか。
ショッキングピンクの上にある頭の部分は、ほぼ金色に近い髪で、ここからだと「おサル」に見える。
猿回しのおサルが、よく派手なちゃんちゃんこを着ているが、あんな感じ。
これがすこしでも見知った人であれば、間違いなく「ヒト」に見えることだろう。
知らない人を「ヒト」と意識して尊重するには、何らかの努力または心がけというものが要るのかもしれない。
ポテトをつまんだ指で、金色の髪をかきあげるあの人からは、私はどんな猿に見えているのだろうか。
ふり
旅に出たくても出られない人から見たら、旅日記は憧れ半分、淋しさ半分。
食事がままならぬ人から見たら、ご馳走日記も、羨望半分、嫉妬半分。
ときによって、そのバーが、半分よりこっちに来たりあっちに行ったりする。
純白と漆黒の間に、無数のグレーゾーンがある。
スーパーに行くのに、うんと遠回りをしていた日々があった。
最短距離には、保育園があり、ママと遊ぶ子らの歓声が響く公園がある。
私はそこを通らないことで、心を保った。
1枚の写真をアップするとき。
ひとつの記事を書き上げるとき。
それができない人のことを想像する。
ごめんね、と思う。
運動会も夏休みも嫌いだった。
でも、それを言ったことはない。
みんなと同じように楽しみなふりをして、楽しんでいる演技をした。
楽しそうな笑顔の奥に、潜んでいるものが気にかかる。
ほんとうは、それは「ふり」なんじゃないかって。
お弁当を食べ終った。
壁を隔てた外側で、はしゃぐ子供らの声がする。
耳を塞げ。
手を休めるな。
気づかないふりをして、つむじ風のようなそれらが、過ぎるのを待つ。
買えなければ死ぬ
ガソリン値上げのニュースをテレビが告げている。
インタビューアーにマイクを差し出された市民が、値上げは痛い、と訴えている。
しかし。
その人の「痛い」は、遊びに行くための経費がかかる、ということだった。
気分が悪くなって、よその局に替えた。
どんなに値上がりしても、ガソリンを使わざるを得ない人に、なぜ訊かないのか。
車でしか移動できない高齢者、障碍者、それを看る家族。
ガソリンがもったいないからと、病院へ行くのをあきらめる人もいるだろう。
そういう人にとって、値上げは死に直結する。
なのに、遊びに行く人の「痛い」ばかり報じるな。
マスコミも「グル」だ、と、こういうときに思う。
多面体またはアメーバ
私の他には誰もいないオフィスに、FAXの音が響いている。
大概は、経営セミナーの案内とか、節税のコンサルティングのお誘いで、ゴミ箱に直行だ。
エアコンの音も聞こえてくる。
それから、外を通る車の音。
オフィスは、どちらかといえば商店街にある。
私のお昼は持参のお弁当だが、周囲には、チェーン店のお弁当屋さんもコンビニも牛丼屋さんもハンバーガーショップも、ひととおり揃っていて、お弁当を持って来ない勤め人には都合のいい条件。
商店街の裏側には、高所得者向けのマンションが建ち並んでいる。
当然ながら、犬を散歩させている老人や、早目の買い出しに来る奥様方や、名門小・中学校から下校する子供たちとか、お迎えをしてきたママたちと幼稚園児の組み合わせとか、いろんな生活者のかたが通る。
その、話し声、生活音が苦手だ。
自分が家にいるときは、すこしも気にならないそれが、オフィスにいるときは、雑音を通り越して騒音になる。
単に、やかましい、というのではない。
場違いなのは自分のほうかもしれないのに、相手のほうこそそうだと感じてしまう身勝手さによる精神的な騒音、である。
廃品回収の車が通った。
故障していても無料で引き取るとテープは流しているが、いざ持っていくと、これに限っては有料です、なんてことを平然と言われる。
忌々しい。
こういうとき、オフィス街の職場が懐かしくなる。
線引きに迷いつつ、一種の棲み分けも求め、混在に苛立つ他方で、雑多や曖昧や多様性を好まずにいられない。
ひとりの人の中に、いろいろな対象をみることがある。
たとえば親しい異性がいたとしたら、そのときどきにより、恋人にも親友にも悪友にも家族にも、場合によってはただの通りすがりにだって感じられる。
この人は私にとって「こういう存在」というようなあてはめかた、決めつけかたが好きではないし、できない。
器によってかたちを変える水のような、あるいはアメーバのような関係を好む。
だから、私の中で、または私をもそういうアメーバだととらえている人ととの間でなら、男女の友情は確かに成立している。
そしてそれは、sexの有無に左右されない。
異性だと意識したら、相手に欲情したら、友達ではいられない、とはまったく思わない。
恋愛感情抜きのsexは考えられないが、すべてをそれの有無で分けることに、なんとなく気持ち悪さを感じてしまう。
こだわりの強さが、どうにも生臭い。
自分も多面体でいたいし、相手との関係にもそれを求める。
「この人は友達以外のなにものでもない」という言い切りができたり、恋愛感情しか覚えない相手、というのは、私にはいささか物足らない。
この矛盾もまた、自己の多様性ということで、自分を納得させている。
ポスト
ブラジルとチリのPK戦が決すると、もう4時に近かった。
梅雨空のせいで、太陽の明確な気配はないけれど、心なしか明るくなってきていて、
久しぶりに朝まで起きていたなと実感した。
別にチリのファンでもサポーターでもないが、PKで最後のキッカーが外したことがなんとなく尾を引いていた。
後何センチの差だったのか、ボールはポストにはじかれて枠の外へ飛んだ。
ほんの数センチが、ときに数ミリが勝敗を分ける。
こんな数センチが、私にもあったかもしれないと思った。
それも、外したことも、ポストに当たったことすら気づいていないことが。
そして、それが何だったのか、気づかないままで、生を終えるのだろう。
失敗した、と自覚し、悔しさに泣くことは、幸せなのか、そうでないのか。
突然思い立って、お風呂に湯を張って、朝湯の贅沢を楽しんだ。
髪を乾かしていたら、次の試合時間になった。
完全に夜は果てに至り、そこからまた次の闇に繋がる明るみが始まっている。
いい具合にセットできた髪を、次の実況を枕に横たえた。
蟹を産む
大量の蟹を「産んでいる」夢を見た。
小さな沢ガニみたいなのもあれば、郷里の名産のずわい蟹もある。
そして、彼らはみな生きていなかった。
産むというより、排泄であったのかもしれない。
この夢の深層分析は必要ない。
青が群青になり、やがて墨色になるように、すべての時間と空間には、明確な線はない。
朧で曖昧で境を持たぬ世界を、私は一方で受け容れ、他方で拒んでいる。
どこが優勝するにしても、今年のワールドカップを、私はけして忘れないだろう。
多くの人を惜しみ、同時に拒んでは、別れを繰り返した年の。
蟹を産めるとしたら、それは食べるためなのか。
食べて生き抜くためなのか。
それとも。
自分が産んだ蟹は、食物としての価値を持たず、ただ愛すべき対象のみなのか。
夢の中では、どんな感情も湧いてはこなかった。
それは、私には、未だ知らぬ感情がいくつもあるということ。
たくさんたくさんあるということ。