さなみん

石をひとつ投げ込んでみる心のなか

買えなければ死ぬ

ガソリン値上げのニュースをテレビが告げている。

インタビューアーにマイクを差し出された市民が、値上げは痛い、と訴えている。

しかし。

その人の「痛い」は、遊びに行くための経費がかかる、ということだった。

気分が悪くなって、よその局に替えた。

 

どんなに値上がりしても、ガソリンを使わざるを得ない人に、なぜ訊かないのか。

車でしか移動できない高齢者、障碍者、それを看る家族。

ガソリンがもったいないからと、病院へ行くのをあきらめる人もいるだろう。

そういう人にとって、値上げは死に直結する。

なのに、遊びに行く人の「痛い」ばかり報じるな。

 

マスコミも「グル」だ、と、こういうときに思う。

 

f:id:sanaming009:20140702181958j:plain

多面体またはアメーバ

私の他には誰もいないオフィスに、FAXの音が響いている。

大概は、経営セミナーの案内とか、節税のコンサルティングのお誘いで、ゴミ箱に直行だ。

エアコンの音も聞こえてくる。

それから、外を通る車の音。

 

オフィスは、どちらかといえば商店街にある。

私のお昼は持参のお弁当だが、周囲には、チェーン店のお弁当屋さんもコンビニも牛丼屋さんもハンバーガーショップも、ひととおり揃っていて、お弁当を持って来ない勤め人には都合のいい条件。

商店街の裏側には、高所得者向けのマンションが建ち並んでいる。

当然ながら、犬を散歩させている老人や、早目の買い出しに来る奥様方や、名門小・中学校から下校する子供たちとか、お迎えをしてきたママたちと幼稚園児の組み合わせとか、いろんな生活者のかたが通る。

その、話し声、生活音が苦手だ。

 

自分が家にいるときは、すこしも気にならないそれが、オフィスにいるときは、雑音を通り越して騒音になる。

単に、やかましい、というのではない。

場違いなのは自分のほうかもしれないのに、相手のほうこそそうだと感じてしまう身勝手さによる精神的な騒音、である。

 

廃品回収の車が通った。

故障していても無料で引き取るとテープは流しているが、いざ持っていくと、これに限っては有料です、なんてことを平然と言われる。

忌々しい。

 

こういうとき、オフィス街の職場が懐かしくなる。

線引きに迷いつつ、一種の棲み分けも求め、混在に苛立つ他方で、雑多や曖昧や多様性を好まずにいられない。

 

f:id:sanaming009:20140701065406j:plain

ひとりの人の中に、いろいろな対象をみることがある。

たとえば親しい異性がいたとしたら、そのときどきにより、恋人にも親友にも悪友にも家族にも、場合によってはただの通りすがりにだって感じられる。

この人は私にとって「こういう存在」というようなあてはめかた、決めつけかたが好きではないし、できない。

器によってかたちを変える水のような、あるいはアメーバのような関係を好む。

 

だから、私の中で、または私をもそういうアメーバだととらえている人ととの間でなら、男女の友情は確かに成立している。

そしてそれは、sexの有無に左右されない。

異性だと意識したら、相手に欲情したら、友達ではいられない、とはまったく思わない。

恋愛感情抜きのsexは考えられないが、すべてをそれの有無で分けることに、なんとなく気持ち悪さを感じてしまう。

こだわりの強さが、どうにも生臭い。

 

自分も多面体でいたいし、相手との関係にもそれを求める。

「この人は友達以外のなにものでもない」という言い切りができたり、恋愛感情しか覚えない相手、というのは、私にはいささか物足らない。

この矛盾もまた、自己の多様性ということで、自分を納得させている。

ポスト

f:id:sanaming009:20140628130935j:plain

ブラジルとチリのPK戦が決すると、もう4時に近かった。

梅雨空のせいで、太陽の明確な気配はないけれど、心なしか明るくなってきていて、

久しぶりに朝まで起きていたなと実感した。

 

別にチリのファンでもサポーターでもないが、PKで最後のキッカーが外したことがなんとなく尾を引いていた。

後何センチの差だったのか、ボールはポストにはじかれて枠の外へ飛んだ。

ほんの数センチが、ときに数ミリが勝敗を分ける。

 

こんな数センチが、私にもあったかもしれないと思った。

それも、外したことも、ポストに当たったことすら気づいていないことが。

そして、それが何だったのか、気づかないままで、生を終えるのだろう。

 

失敗した、と自覚し、悔しさに泣くことは、幸せなのか、そうでないのか。

 

突然思い立って、お風呂に湯を張って、朝湯の贅沢を楽しんだ。

髪を乾かしていたら、次の試合時間になった。

完全に夜は果てに至り、そこからまた次の闇に繋がる明るみが始まっている。

いい具合にセットできた髪を、次の実況を枕に横たえた。

蟹を産む

大量の蟹を「産んでいる」夢を見た。

小さな沢ガニみたいなのもあれば、郷里の名産のずわい蟹もある。

そして、彼らはみな生きていなかった。

産むというより、排泄であったのかもしれない。

この夢の深層分析は必要ない。

 

f:id:sanaming009:20140628071046j:plain

青が群青になり、やがて墨色になるように、すべての時間と空間には、明確な線はない。

朧で曖昧で境を持たぬ世界を、私は一方で受け容れ、他方で拒んでいる。

 

どこが優勝するにしても、今年のワールドカップを、私はけして忘れないだろう。

多くの人を惜しみ、同時に拒んでは、別れを繰り返した年の。

 

蟹を産めるとしたら、それは食べるためなのか。

食べて生き抜くためなのか。

それとも。

自分が産んだ蟹は、食物としての価値を持たず、ただ愛すべき対象のみなのか。

夢の中では、どんな感情も湧いてはこなかった。

それは、私には、未だ知らぬ感情がいくつもあるということ。

たくさんたくさんあるということ。

豪雨

f:id:sanaming009:20140626104448j:plain

駅舎の外はすさまじい雨だった。

大半の降客は傘を持っていたが、それを開いて出ていくことも躊躇われて、屋根の下に留まり、どこか呆然といった面持ちで豪雨を眺めていた。

 

私の傘は折りたたみの脆弱なものだが、軽い決心をしてそのまま出た。

矢のごとき勢いの雨粒に、傘が撓む。

かまわず、歩く。

何より、風がない。

風さえなければ、傘をとられることもない。

 

小さな弱いナイロン?が私と雨とを隔てていた。

むろん、服も足元も水をかぶったようになったが、頭さえ濡れなければいい、というような気持ちで歩いた。

なんのことはない、たとえ頭が濡れようとも、いずれ乾くのだ。

服や靴が乾くのと同じ。

 

たくさんの雨が、私を通り抜けて行く。

止まない雨はない、という慰めだか励ましだかの言い草は嫌いだけれど、私は雨の中を歩いても、自分の体温で濡れた身体を乾かすことができる。

できる、と思う。

 

家に近づくにつれて、雨は小止みになり、前まで到着したときには、嘘のように上がってしまった。

駅舎の屋根の下で様子を見ていた人たちは、もう歩き出しているだろう。

あの人ももう少し待っていれば良かったのにね、などと、同情と嘲笑の半分ずつをいただいているかもしれない。

 

けれど。

これが私なのだ。

濡れることがわかっていても、歩き出したいときがある。

冷たくなった服を脱ぎながら、負け惜しみではなく、ひとり笑った。

そして、水をいただいた眼下の街を、いつになく美しいと思った。

未雨

f:id:sanaming009:20140624164113j:plain

頭痛薬を飲んで、ついでに朝から開け放していた窓を閉めた。

雨はまだ降っていない。

雷鳴だけが、思い出したように轟く。

すこしだけ、寒気がする。

 

テレビ画面には、雹。

雪が積もったようになっている映像に季節を見失う。

スコップで掻いている半袖姿の住民。

 

買物に行くのが億劫。

熱はないが、ないと思うが、ひどく身体がだるい。

雨が降りだしたら、出かけよう、と思う。

人に聞かれたら、笑われるだろう。

 

何が毒で、何が薬になるかは、その都度、私が決めたい。

 

闇が足らない。

黒雲が満ちていない。

何に対してかわからぬものに握りしめたはずのこぶしに、力が入らない。

 

ふと気になって、家電についているデジタル時計の数を数える。

5つ。

多いのか少ないのかわからない。

そんなに必要ない、ということだけはわかった。

 

大雨警報を告げるテレビのスイッチを落としてみる。

雨音は、まだ聴こえてこない。

夏至

f:id:sanaming009:20140621143835j:plain

夜が明けるのが一番早い日、と思っていた頃があった。

実際のそれは、もうすでに過ぎていて、夏至というのは、昼間の時間が一番長いということらしい。

いずれにしても、季節は真夏に向かっていくが、日没は早まり、夜は確実に長くなっていくのだ。

寝苦しい夜は、黙っていても過ぎて、布団のぬくもりが恋しくなる朝が来る。

その繰り返し。

 

爪を切らなければ、と思う。

長い爪が苦手な私は、白いところが見えてくるともう落ち着かない。

 

爪が伸びると、生きているんだと感じる。

病気のときにも爪は伸びた。

入院中に、爪切りを借りた。

 

父の遺体を見たとき、ああ、もうこの爪は伸びないんだなと思った。

息をしていないことよりも、身体が冷たいことよりも、その爪が伸びないことが、私に死を感じさせた。

その冬が過ぎて、夏が来て、また冬となり、私の怒りや悲しみには関係なく時は過ぎていく。

 

今日は、帰って爪を切ろう。

次に爪を切るときの自分はどんな状態なのか、想像もつかない。

 

光が眩しい。

眩しさに目を閉じた瞬間、この世の果てがやってくるとしたら、それはそれで悪くない、と思う。