なんとなく
なんとなく嫌なのだ。
ゴジラのハリウッド版。
ゴジラ誕生をリアルタイムでは観ていない。
何年か経って、テレビで観た。
でも、その頃、第五福竜丸の事故があったことは知っている。
ビキニ環礁での水爆実験。
ゴジラは、水爆実験によって巨大怪獣となった。
それを、実験した当事者の国が映画化するのが、なんとなく嫌だ。
同時多発テロで崩壊したワールドトレードセンターの跡地を、当時、グランド・ゼロと呼んでいたのも、なんとなく嫌だった。
だってそれは、広島や長崎の爆心地を指した言葉だったから。
それを原爆を落とした当事者の国が、別のところで使うのが。
是非ではなく、感覚の問題。
ただ、なんとなく、ということ。
行き場
物干し竿は固定した。
ベランダのサンダルは、玄関に避難した。
朝起きて、ベランダのサッシを開けると、容赦ない雨が吹き込んできたので、慌てて閉めた。
行き場を失った二酸化炭素が、もわりという湿気になって、部屋の中に淀んでいる。
その二酸化炭素を排出したのは私。
ハーフタイムにチャンネルを替えた。
ニュースが、昨日の台風や土砂崩れによる被害を報じている。
慣れ親しんだ土地が、そのものが、一瞬にして凶器となって暮らしや命を呑み込んで行く。
生死を分けるものには、明確な基準などないのではないか、などと思う。
ランダムであることの無慈悲は、そうでないことと比べて、どちらが残酷なのか。
後半が始まった。
私はその悲惨なニュースから一転して、人の生き死にに関わらないサッカーゲームの世界に戻って行く。
そのあっけないほどのたやすさ。
しかし、だからこそ、生きていける。
長靴を履いて行こうかと迷う。
私の逡巡など、それくらいのものだ。
これは、数年前の写真。
ここ数年のうちに、あっと言う間に畑地は消え失せて、似たような造りの建売住宅と大規模マンション群に占領されてしまった。
新しく出現したそこには、耳心地のいい、小洒落た名前までつけられている。
コンクリートとアスファルトの街は、大雨が降ると、行き場のなくなった水が道路にあふれる。
断続的に降り続く雨が、小康状態になったのを見計らって、再び窓を開ける。
そして淀んでいた空気と、心の両方を、排出する。
静かに
はてなでの最終更新をしたある人気ブログの記事に、
「はてなは、静かにブログを書かせてくれないところだよね。」
という記述がある。
「自分がいる場所に勝手にとびこんできて、そこをかき乱してくるなにか、っていうのがある。」
「ブログは生身の人間がやってるから、自分のこわされていくなにかに、いろいろかなしくなったり、いろいろ腹がたったり。」
私も、もうここがいくつ目だ、ブログ(^_^;)
ほかでも同時進行しているけど、ここはコメント欄を閉めているし、ほかは非ログ閲覧拒否にしているから、なんとかやっていけている。
たくさんのブログサイトをうろついてきて、はてなは、書きやすさでは1,2を争うと思うけれども、一番うっとおしい人が多いかもしれない。
原因のひとつは、ブクマだと思う。
そうよ、私も静かにブログが書きたいだけ。
頷いてくれる人たちだけ「そうだよね」って言い合えればいい。
そのためにコメントは開けたいのだけれど、トラウマがあるので開けられない。
とりあえずは、スターで充分と思っている。
七夕はいつも雨降り
雨が降ると、織姫と彦星は逢えないのか。
雨が降ると、天の川が洪水になるのか。
でも、天の川は水じゃなくて星なんだから、渡れないということはないんじゃないの?
いや、だとすれば、そもそもカササギの橋など要らないことになる。
違う、違う、雲の上には、雨は降らないんだ。
だから、天の川はいつもそこにあって、逢おうと思えば、天の恋人たちはいつだって逢えるんだ。
だから、昨日も、ふたりはちゃんと逢引きしたはず。
良かった。
七夕は、いつも雨降り、という印象がある。
梅雨時だし。
だから、ことさら、それを残念がった記憶はない。
幼稚園も保育園も行かなかった私には、七夕飾りを作ったことも、短冊に願いごとを記した経験もない。
もし、機会があったとしても、願いごとはたくさんありすぎて、短冊には収まらず、忍法秘伝奥義のごとき巻物になったかもしれない。
あれはいったい、誰へのお願いなんだろう?
叶えるのは自分。
いつだって自分。
それから、手を貸してくれるありがたき「ニンゲン」。
神さまができるのは、昨日の残り物のカレーを、ちょっと美味しくしてくれるくらいのこと。
マジックソルトのようなもの。
でも。
風に揺れる七夕飾りは好きだ。
特に、時期を損ねて置き去りになり、雨に濡れ朽ち果てていくそれに、私は何を重ねて美しいと感じているのだろうか。
サル
オフィスのエアコン室外機が嫌な音を立てている。
除湿にすると暑いし、冷房にすると寒い。
冷房温度を28℃にすると暑く、27℃にすると寒い。
どっちつかずの苛立ちを、室外機の音が煽っている。
2階の窓からは、向かいにあるハンバーガーショップの2階がよく見える。
ポテトをつまんでいる指の、ショッキングピンクのベストの下から覗いた腕は、黒い袖に覆われている。
暑くないのかな、と思う。
それとも店が寒いのか。
ショッキングピンクの上にある頭の部分は、ほぼ金色に近い髪で、ここからだと「おサル」に見える。
猿回しのおサルが、よく派手なちゃんちゃんこを着ているが、あんな感じ。
これがすこしでも見知った人であれば、間違いなく「ヒト」に見えることだろう。
知らない人を「ヒト」と意識して尊重するには、何らかの努力または心がけというものが要るのかもしれない。
ポテトをつまんだ指で、金色の髪をかきあげるあの人からは、私はどんな猿に見えているのだろうか。
ふり
旅に出たくても出られない人から見たら、旅日記は憧れ半分、淋しさ半分。
食事がままならぬ人から見たら、ご馳走日記も、羨望半分、嫉妬半分。
ときによって、そのバーが、半分よりこっちに来たりあっちに行ったりする。
純白と漆黒の間に、無数のグレーゾーンがある。
スーパーに行くのに、うんと遠回りをしていた日々があった。
最短距離には、保育園があり、ママと遊ぶ子らの歓声が響く公園がある。
私はそこを通らないことで、心を保った。
1枚の写真をアップするとき。
ひとつの記事を書き上げるとき。
それができない人のことを想像する。
ごめんね、と思う。
運動会も夏休みも嫌いだった。
でも、それを言ったことはない。
みんなと同じように楽しみなふりをして、楽しんでいる演技をした。
楽しそうな笑顔の奥に、潜んでいるものが気にかかる。
ほんとうは、それは「ふり」なんじゃないかって。
お弁当を食べ終った。
壁を隔てた外側で、はしゃぐ子供らの声がする。
耳を塞げ。
手を休めるな。
気づかないふりをして、つむじ風のようなそれらが、過ぎるのを待つ。