さなみん

石をひとつ投げ込んでみる心のなか

父が来た朝

朝起きてすぐに、母に電話をした。

出ない。

兄の携帯にかけた。

何回か呼んで、すぐに留守番電話サービスの声になった。

この女声が、いつも高すぎやしないかと感じている。

女性の声は、もうすこしアルトが好み。

 

玄関の物音に気づいて寝室からリビングに行くと、そこに父が立っていた。

ダブルロックにしてある玄関を、どうやって開けて入ったのかと思ったが、すぐに「ああそうか」と理解した。

父は、生きていたときより背が20センチくらい高かった。

経験したことのない高さから、私を見降ろしている。

その新鮮とも言える感覚を、私はまた「ああ、そうか」と思った。

足元を見た意識はないが、浮いていたのかもしれない。

 

「疲れた」と父は言った。

そして、勝手にリビングに横になった。

横になったとき、足はあった。

本当に疲れた顔をしていた。

徹夜で仕事をしても、あるいは飲んだくれて朝帰りしても、疲れというものを感じさせない人だった。

疲れたという言葉を聞いた記憶もない。

脳梗塞で倒れるほんのすこし前に、一緒に仕事をしていた母に「今日は疲れたから早仕舞いする」と言ったそうだ。

母は、父からそんな言葉を聞いたのが初めてだったので、これはおかしいと思って、タクシーで病院に連れて行った。

そのときは、もう脳出血があったらしい。

 

こんな感じなのか、と思った。

父はそのまま目を瞑り、私は声をかけるのが躊躇われた。

何をするすべもなく、横たわる父を見ているだけの自分がもどかしくて、ふっと目をそらした次の瞬間に、父の姿は消えていた。

「ああ、そうか」とまた思った。

 

そして、母に電話をしたのだ。

父が何のために私のところに姿を見せたのか、もしや母か兄に何かあったのではないかと。

 

3度目の電話で、母が出た。

寝ぼけた声。

特に変わったことはないという。

兄は早朝からゴルフだそうで。

来月半ばには、兄も手術だから、今のうちに、ということらしい。

手術がうまくいかなければ、もう二度とゴルフなどできなくなるということを、兄も心のどこかで恐れているのだろう。

 

夕方、着信履歴を見て、兄からコールバック。

元気そうな脳天気な声だった。

今週、手術の説明と、「万一のことがあっても承諾します」みたいな文章にサインをしに行かなければならないのだが、その確認かと思ったようだ。

 

父が来たことは言わなかった。

あの疲れは、父が何か骨を折った証かもしれないと、思うことにした。

たとえば、右を向いていた運命を、左に転換させた疲れ。

 

夢と思えば夢。

そうであれば、そこに意味などない。

スピリチュアルとかいう言葉は、嫌い。

おカネだけちょうだい

広島の土砂崩れの被災者が、今もまだ避難している学校施設だかに、ようやく臨時のお風呂が設置されるという。

着の身着のまま逃げてきて、蒸し暑い夜をいくつも過ごして、やっとお風呂に入れるのか。

 

空き家が増え過ぎた問題を聞いたのも最近のこと。

そういうのを、政治や行政の力で早く整備して、とりあえずでもいいから、プライバシーと清潔と健康が保たれる場所に移してあげて欲しい。

 

氷水をかぶるパフォーマンスは嫌い。

私には、あれは、コンビニのアイスクリームのボックスに入った写真を投稿したバカッター?と同次元に見える。

他人さまの難病を理由に、いや、他人さまの病気をおもちゃにして、自己アピールしているだけ。

黙って寄付すればいいのに。

悪行は堂々と、善行はこっそりとやるのがカッコイイ。

 

瓦礫をかぶったのは、痛くて見られなかった。

そうよ、お風呂のない被災者生活もあれば、日常的に水のない戦下の暮らしもあるのよ。

 

実際に寄付金の増えた難病患者は、感謝していると告げていた。

私なら。

その後に続けるわ。

もう氷水をかぶるのはやめてくれ。

派手なパフォーマンスは要らないから、おカネだけちょうだいって(^_^;)

どっかで、死人まで出たそうな。

もうわかった、もうやめてくれ、と私が患者かその家族なら、そう思う。

黙って、おカネだけちょうだい、あなたが善い人なら、と。

私の子供は死んだから

私の子供は死んだから。

 

産休や育休をとって、同僚に業務を負担してもらっているときに、ただ産まれた赤ん坊だけを見せに、会社に来ないでほしい。

出産や育児の大変はあるのだろうし、気晴らしも欲しいだろうし、自分には可愛く見える赤ん坊を自慢したい気持ちもあるのだろう。

 

しかし、あなたの気晴らしと自慢を、あなたの分まで忙しくなった職場に、能天気に持ち込まれては困る。

みんなで気晴らしをするような、休日のレクリエーションになら、どうぞご参加ください。

でも、仕事中はやめて。

 

子供が死んでから、私は、子供そのものを可愛いと感じないようになることで、自分の傷を癒してきた。

だから、他人の子は、可愛くない。

うるさく騒がれたりしようものなら、憎悪さえ感じる。

子供が嫌いだと言うと、周囲は、私をいかにも冷酷な情け知らずの女ととらえるらしいが、それでもかまわない。

 

産まれた赤ん坊を自慢に来る人は、自分と赤ん坊の姿が、見る人すべてに幸福を与えていると思っている。

でも、それは、違うのよ。

 

年賀状や暑中見舞いに子供や孫の写真を印刷してくる人とは、できるだけ疎遠になるようにしている。

私は別に、あなたの家族に興味はない。

 

祭囃子が聞こえる。

この夏、母は、平均寿命に達した。

私には、生より死のほうが、ずっと身近だ。

誰もが感じる生のエネルギーは、私にはただ負荷であるばかり。

なんとなく

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なんとなく嫌なのだ。

ゴジラのハリウッド版。

 

ゴジラ誕生をリアルタイムでは観ていない。

何年か経って、テレビで観た。

でも、その頃、第五福竜丸の事故があったことは知っている。

ビキニ環礁での水爆実験。

 

ゴジラは、水爆実験によって巨大怪獣となった。

それを、実験した当事者の国が映画化するのが、なんとなく嫌だ。

 

同時多発テロで崩壊したワールドトレードセンターの跡地を、当時、グランド・ゼロと呼んでいたのも、なんとなく嫌だった。

だってそれは、広島や長崎の爆心地を指した言葉だったから。

それを原爆を落とした当事者の国が、別のところで使うのが。

 

是非ではなく、感覚の問題。

ただ、なんとなく、ということ。

行き場

物干し竿は固定した。

ベランダのサンダルは、玄関に避難した。

 

朝起きて、ベランダのサッシを開けると、容赦ない雨が吹き込んできたので、慌てて閉めた。

行き場を失った二酸化炭素が、もわりという湿気になって、部屋の中に淀んでいる。

その二酸化炭素を排出したのは私。

 

ハーフタイムにチャンネルを替えた。

ニュースが、昨日の台風や土砂崩れによる被害を報じている。

慣れ親しんだ土地が、そのものが、一瞬にして凶器となって暮らしや命を呑み込んで行く。

生死を分けるものには、明確な基準などないのではないか、などと思う。

ランダムであることの無慈悲は、そうでないことと比べて、どちらが残酷なのか。

 

後半が始まった。

私はその悲惨なニュースから一転して、人の生き死にに関わらないサッカーゲームの世界に戻って行く。

そのあっけないほどのたやすさ。

しかし、だからこそ、生きていける。

 

長靴を履いて行こうかと迷う。

私の逡巡など、それくらいのものだ。

 

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これは、数年前の写真。

ここ数年のうちに、あっと言う間に畑地は消え失せて、似たような造りの建売住宅と大規模マンション群に占領されてしまった。

新しく出現したそこには、耳心地のいい、小洒落た名前までつけられている。

コンクリートアスファルトの街は、大雨が降ると、行き場のなくなった水が道路にあふれる。

 

断続的に降り続く雨が、小康状態になったのを見計らって、再び窓を開ける。

そして淀んでいた空気と、心の両方を、排出する。

静かに

 はてなでの最終更新をしたある人気ブログの記事に、

はてなは、静かにブログを書かせてくれないところだよね。」

という記述がある。

 

「自分がいる場所に勝手にとびこんできて、そこをかき乱してくるなにか、っていうのがある。」

「ブログは生身の人間がやってるから、自分のこわされていくなにかに、いろいろかなしくなったり、いろいろ腹がたったり。」

 

私も、もうここがいくつ目だ、ブログ(^_^;)

ほかでも同時進行しているけど、ここはコメント欄を閉めているし、ほかは非ログ閲覧拒否にしているから、なんとかやっていけている。

 

たくさんのブログサイトをうろついてきて、はてなは、書きやすさでは1,2を争うと思うけれども、一番うっとおしい人が多いかもしれない。

原因のひとつは、ブクマだと思う。

 

そうよ、私も静かにブログが書きたいだけ。

頷いてくれる人たちだけ「そうだよね」って言い合えればいい。

そのためにコメントは開けたいのだけれど、トラウマがあるので開けられない。

とりあえずは、スターで充分と思っている。

 

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七夕はいつも雨降り

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雨が降ると、織姫と彦星は逢えないのか。

雨が降ると、天の川が洪水になるのか。

でも、天の川は水じゃなくて星なんだから、渡れないということはないんじゃないの?

いや、だとすれば、そもそもカササギの橋など要らないことになる。

 

違う、違う、雲の上には、雨は降らないんだ。

だから、天の川はいつもそこにあって、逢おうと思えば、天の恋人たちはいつだって逢えるんだ。

だから、昨日も、ふたりはちゃんと逢引きしたはず。

良かった。

 

七夕は、いつも雨降り、という印象がある。

梅雨時だし。

だから、ことさら、それを残念がった記憶はない。

幼稚園も保育園も行かなかった私には、七夕飾りを作ったことも、短冊に願いごとを記した経験もない。

もし、機会があったとしても、願いごとはたくさんありすぎて、短冊には収まらず、忍法秘伝奥義のごとき巻物になったかもしれない。

 

あれはいったい、誰へのお願いなんだろう?

 

叶えるのは自分。

いつだって自分。

それから、手を貸してくれるありがたき「ニンゲン」。

神さまができるのは、昨日の残り物のカレーを、ちょっと美味しくしてくれるくらいのこと。

マジックソルトのようなもの。

 

でも。

風に揺れる七夕飾りは好きだ。

特に、時期を損ねて置き去りになり、雨に濡れ朽ち果てていくそれに、私は何を重ねて美しいと感じているのだろうか。